真理は単純にして平凡である。

心に残った一文を書き留めていきます。すこしずつ、ひとつずつ、ささやかに。

仰げば尊し2

堀江先生は大正2年生まれですから、私が東伏見のグラウンドをやみくもに走っていた時は64歳。

練習中にグラウンド脇を見るといつの間にか紺のアディダスのジャージを着た痩身の人が立っていました。

「あ、もしかして堀江先生か?」

と思ったら、やっぱりそうでした。

当時、監督は東洋工業日本リーグを制覇した大橋さん。

堀江先生は部長でした。

 

堀江先生との出会いは、それを求めたわけではなく、大学でサッカー始めたらいつの間にか縁ができていたにすぎません。

 

だから、堀江先生の凄さがわかるのは、2年になってから。

そして、3年になって、堀江先生の授業とゼミを受けるようになって、今度はその学者としての凄さを目の当たりにするようになりました。

 

さらに、卒業してからますます堀江先生の存在、教えが身にしみるようになるのです。

 

では何がすごいのか。

 

それは揺るぎない自信でしょう。

 

まずグラウンドで。

堀江先生は今のJリーグクラブのような監督ではありません。

毎日のトレーニングを陣頭指揮することなど皆無です。

むしろ、何を言わんとしているのか、よくわからないと言っていい。

 

でも、どうやったら今日の相手に勝てるのか。

その判断は的確でした。

そして、優勝してもだらしのない試合は大嫌いでした。

大学選手権に優勝した直後の「何だ、このだらしない試合は!」の一喝は有名です。

 

サッカーの監督、あるいは指導者として、最先端の人は他にたくさんいました。

むしろ堀江先生のスタイルは古臭いもの。

でも「勝つ」んですよ。

それは堀江先生の自信が全く揺らがないから、何だと思います。

 

次に。授業とゼミ。

 

私のいた政治経済学部の学生の間では、選択してはいけない教授を「3安2堀」と呼んでいました。

 

安藤、安藤、安西、堀家、堀江、です。

 

でも、ア式蹴球部の監督ですからね。私が取らないわけにはいかない。

 

で、授業を受けてみて、何で「選択するな」と言われているかがわかりました。

 

100人以上入る大教室で、講義中に学生がガヤガヤ騒いでいると堀江先生は、

 

「黙れ!」

 

と一喝します。

 

それはほんとにすごい迫力。

 

「あーやばい、そろそろくるぞ」って予期してても

 

ビクーン、って飛び上がるくらいの迫力です。

 

大教室で一喝する先生など、他にはいません。

 

それは自分の講義、学問に真剣だったからです。

 

のちにゼミに集まった仲間たちは、堀江先生のそういうところが好きで集まった学生でした。

 

じゃあゼミはどうだったか。

 

マルクス経済学の批判的再検討」ですから、資本論を一から読んでいくことから始まります。

 

ですが、これが全く読めない。

 

最初の1ページに書いてあることを理解するのに、半年くらいかかりました。

 

つまり、この1ページを理解するには、基礎となる書物、論文を読んで、理解して、それがベースのなっていないといけない。

 

ということは、どれだけの知識が必要なのか。

 

サッカーの日本代表でベルリンオリンピックに行っている生粋のアスリートで、こんなに学問しているなど、到底信じられないレベルです。

 

しかも、左派、右派の学者から攻撃され、無視され続けても、決して日和ることなく、「俺が正しい」と主張し続けたその「構え」。

 

実際、ベルリンの壁崩壊後は、堀江先生の主張が正しかったことになるのです。

 

 

 

 

 

 

 

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仰げば尊し1

あなたには「師匠」がいますか?

 

幸いにも、私には数人の「師匠」がいます。

 

「師匠」を見つける才能は少しあるのかもしれません。

 

世の中には、師匠を持たない人、師匠との出会いがなかった人がたくさんいます。

 

もちろん、それが不幸とか、ダメだとかいうことではありませんが、そもそも師匠に出会うということは、「あぁ、師匠に出会えて本当によかった」と後から思うことですから、師匠との出会いがない人は、その「あぁ、よかった」という体験をすることができません。

 

とっても残念だと思います。

 

ま、それは置いといて、まず私にとって初めての「師匠」、そして今でも最高の「師匠」、堀江忠男先生のお話をします。

 

堀江先生の肩書きから紹介しますね。

早稲田大学政治経済学部教授、経済学博士。そして我が早稲田大学ア式蹴球部のOBであり、監督であり、部長。

1936年、ベルリンオリンピックサッカー日本代表として参加し、優勝候補スウェーデンを破った「ベルリンの奇跡」の一員。

大学卒業して朝日新聞に入社したのですが、12年後、母校に戻りマルクス経済学の批判的再検討を行いました。

いわゆるマル経ですが、立場は「マルクスは天才だが、資本論は論理的に破綻している間違いだらけの書物だ、だからそれを国是とする社会主義国がうまくいくはずがない、やがて崩壊する」、でした。

マルクス経済学が猖獗を極めていた1950年代、60年代に「資本論は間違いだ」って堂々と論陣を張っていたのですから、左右両方の「御用学者」から攻撃され続けていました。

 

でもグランドでの闘志と同じで、いつも胸を張り、背筋を伸ばし、颯爽としていました。

 

文字通り、「文武両道」を極めた先生でした。

 

本のなかでそういう人の話を読んだことは何度もあるのですが、そんな人が本当にいることを初めて知ったのが、東伏見のグラウンドでした。

1977年、3月のことです。

 

 

 

 

 

 

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ブログ再開します

「ブログをほったらかしにしているとエネルギー状態がどんどん下がっていく」

 

ということがわかりました。

 

確かに、その通りだと思います。

 

このブログの更新が滞っている間、諸々の状態が上がったかというとそうでもありません。

 

でも、冒頭の指摘をしていただいた「師匠」との出会いがあったのですから、まぁ、奇跡のようなものです。

 

てな訳で、ちゃんと更新することにしました。

 

まずは、今まで私が師事した師匠たちのお話をします。

 

 

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明るい言葉を大きな声で

看護婦になる教育を受けているときにひとつ教わったことがあります。明るい言葉は人の鼓膜を明るく震わせるということです。明るい言葉には明るい振動があります。その内容が相手に理解されてもされなくても鼓膜が物理的に明るく震えることに変わりはありません。だから私たちは患者さんに聞こえても聞こえなくても、とにかく大きな声で、明るいことを話しかけなさいと教えられます。理屈はどうであれ、それはきっと役に立つことだからです。経験的にもそう思います。

 

1Q84 Book2」後編 294ページ 村上春樹 新潮文庫

 

聴覚は最後までのこる感覚です。臨終の床で必死に呼びかけると蘇生することがあるのはちゃんと聞こえているからです。

明るい言葉を大きな声で。

学習や訓練によって得られないギフト

いずれにせよ、あなたはマジック・タッチを持っている。普通ではない力を発する指だ。人間の身体の特殊なポイントを探りあてることのできる鋭い感覚だ。それは特別な資格であり、ごく限られた数の人間にしか与えられない。学習や訓練によって得られるものではない。わたしも種類こそ違え、同じ成り立ちのものを手にしている。しかし、すべての恩寵がそうであるように、人は受け取ったギフトの代価をどこかで払わなくてはならない。

 

1Q84 Book2」後編 302ページ 村上春樹 新潮文庫

 

たしかに、学習や訓練によっては得られない何か、を持っている人はいます。

でもそれが本当に学習や訓練では得られないのか。

正しい方法で、閾値を超え得る量の学習や訓練によればそこに到達できるのではないか。

私はそう思っています。

だってそうじゃなかったら面白くないでしょ。

 

美しく心地よいお話

世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めてはいない。真実というのはおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地よいお話なんだ。だからこそ宗教が成立する。

 

1Q84 Book2」 村上春樹 新潮文庫 前編 299ページ

 

美しく心地よいお話で救われる場合もあるし、それではなにも解決しない場合もあります。

 

どれほど根が善良でも

「かれらがなんであるかは、かれらの生産と、すなわちかれらがなにを生産し、またいかに生産するかということと一致する」  史的唯物論を「ひとこと」で言えば(無理な注文ですけど)、これに尽くされる。そう言っていいくらい有名な言葉です。  人間が何ものであるかは、その人が「何であるか」という本質的な条件によってではなく、「なにを生産し、いかに生産するか」によって決定される。  ぼくは、このテーゼを「そうだよな」と深く納得できるなら、その人は高校生であっても中学生であっても、マルクス主義者を名乗る資格があると思います。ほんとに。  例えば、ここに「根っからの邪悪な人間」がいたとしますよね。こいつがたまたまもののはずみで「善行」したとします(おばあさんに電車の席を譲るとか。まあ、それって厳密には「生産」じゃないですけど)。史的唯物論的には、この人は「いい人」ということになる。その人が「ほんとうは何ものであるか」なんて、極端な話どうでもいいよ。と。マルクスはそう言っているわけです。どれほど根がヨコシマでも善行をすれば善人。どれほど根が善良でも悪いことをすれば悪人。

 

「若者よ、マルクスを読もう」内田樹 石川康宏 Kindle版 位置2455

 

善き行いの積み重ねこそが世の中を住みやすいものにする。たとえそれがどんな打算的な意図でなされようとも。 私もそう思います。 若いころは全くそう思わなかったんですけどね。