真理は単純にして平凡である。

心に残った一文を書き留めていきます。すこしずつ、ひとつずつ、ささやかに。

仰げば尊し4

我が師匠、堀江忠男先生に関しての補足。

補足というよりもトピックを幾つか。

 

1、1975年前後だったと思いますが、ウルグアイで開催された世界大学サッカー選手権に出場する「大学選抜」の役員として堀江先生が随行された時のこと。

予選リーグは勝ち上がったのですが、ベスト16の初戦で2−0で敗戦しました。

開始早々に失点して、それを挽回できず追加点を許しての敗戦です。

その直後のインタビューで主将だった法政大学のYさん(だと思います)がこう言いました。

「開始1分で失点して、それでガクっときた」

 

これが堀江先生は気に入らない。

 

「残り89分もあるのに、何がガクっときただ!そんなことだから負けるんだ」

 

このエピソードを我々は4年間で30回くらい聞いています。

 

今、ワールドカップ予選で初戦に敗退しただけで、「崖っぷち」とか言っている某民放や、マスコミの人々。

 

何を言ってんだか。

 

2、「真理は単純にして平凡である」

 

これは堀江先生の学問の基本でもあるし、サッカーを含めたその生涯の基本でした。

 

マルクスの誤りの一つは、社会科学を説明するツールとして弁証法を使ったこと。

 

人文科学では有効でも、社会科学には弁証法は適用できない。

 

「飛んでいる矢は、論理が無矛盾であるべきものなら、止まっているはずだ。というのは、それは、いつどこの瞬間においても、どこかの点にあるはずであり、それがどこかの点にあるというからには、止まっているはずだ。そして静止をいくら合計しても運動になるわけがない」というゼノンの主張を基本にしてヘーゲルマルクスが発展させたのが弁証法です。

 

資本論」はこういう論理で全体が覆われています。

 

ですが、こんな論理で経済の法則を論じられても混乱するだけです。

 

「ある」という言葉は静止の状態を意味しているのであって、「いつどこの瞬間においてもどこかの点にない」のが運動だからです。

だから単純に「この物体は運動している」といえばいいだけ。

 

真理は単純にして平凡である、とはこういう研究から生まれてきた言葉です。

 

3、真の勇気は確信から生まれる。

 

これは堀江先生が大学の理事になった時期と照らし合わせるとよくわかります。

 

昭和43年から45年。学生運動の最盛期です。この時に学生担当理事として学生と向き合ったのが堀江先生でした。

 

相手はマルクスの理論を背景として「革命を!」と主張する「武装」した学生その他。

堀江先生はそのマルクスを徹底的に批判している学者。

その緊迫感の中で、堀江先生を支えたのは、自分の学問に対する確信だったのでしょう。

 

この言葉は、この現場から生まれたものだったと思っています。

 

 

 

 

広告を非表示にする